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自由主義の構想力

 

 

自由主義の構想力@「評論」日本経済評論社1999.2.no.111

橋本努

 

   不況の中で経済格差が確実に広がりつつある。所得分配後の不平等度を表すジニ係数は、すでに八九年の段階で、日本がイギリスやフランスと同じくらい不平等な社会であることを示している。所得格差の不平等化は、八〇年代に入ってから新自由主義の台頭とともに広がりはじめ、現在でもその傾向は続いているようだ。橘木俊詔氏の報告によると、日本はアメリカやカナダほどではないにしても、しかしすでにイギリスやフランス並みに不平等な社会であり、ドイツやイタリアと比べるとはるかに不平等である(『日本の経済格差――所得と資産から考える』岩波新書、一九九八年)。

   こうしたデータが正しいとすれば、日本人の「一億総中流意識」は、もはや神話だということになろう。日本社会が他の先進諸国よりも平等であるという言説は、すでに虚構である。われわれは現在、意識と下部構造の乖離から、いわば「イデオロギー的虚偽意識」に陥ってしまったようである。

   注目すべきは、こうした所得分配の不平等化が、社会の「保守化」とともに男女間でも進行している点である。日本の男女賃金格差は一九七五年以来ますます広がる一方であり、日本の女性は男性の約半分しか賃金を得ていない。女性の社会進出が進展しているといわれる九〇年代においても、こうした不平等化は続いている。ちなみにスウェーデンの女性の賃金は男性の九〇%であり、アメリカでは七〇%である。他国に比して日本がいかに不平等な社会であるかが分かるだろう。

   もう一つ、現代の日本社会においては階層間の移動が減少し、社会層の固定化傾向がみられることにも注目したい。高度経済成長期においては学歴が所得水準を決定する大きな要因であったが、現在では学歴と所得の相関関係は弱まり、他方では戦前のように、親の階層が子供の階層を決めるという「保守化」が進んでいる。例えば、親がホワイトカラーであれば子供もホワイトカラーになるという具合に、親子の生活スタイルが固定化し、このことが時代の閉塞状況を生み出していると考えられるのである。

   こうした男女格差の拡大と階層固定化傾向のなかで、日本政府は現在、所得の不平等度をいっそう強める方向に税制改革を押し進めている。政府が高額所得者の所得税を減らすのは、「勤労意欲と生産性の向上のため」だと言われる。その背景には、もはや平等主義によっては人々の勤労意欲を引き出すことができないという「エートスの問題」を見いだすことができよう。かつて大塚久雄は、近代自由主義の担い手として「強い勤労エートスをもった中産階級」の活躍を展望したが、現在ではそうした勤労エートスが衰退しつつあり、累進課税による所得の平等化政策は、かえって勤勉さを挫いてしまうと考えられているようだ。

   勤労エートスの衰退、社会意識の保守化、経済格差の拡大。こうした社会的趨勢のなかで、われわれはどのような社会秩序を構想することができるだろうか。中長期的な展望に立って社会を構想する理念を、どこに求めればよいのか。来るべき社会への構想力――本小論ではこの問題を考察してみたい。

 

   おそらくこれからの社会を構想する上で最も重要となる概念は「自由」である。二〇世紀において自由の概念が経験したのは、それがマルクス主義によって「集団自治」という意味へ転化し、悪しき集団主義を生み出したということであった。こうした歴史を反省しつつ、I・バーリンは「消極的自由」のみを有効な概念だと主張し、またJ・ロールズは「公正としての正義」に基づく自由主義を理論的に展開した。自由の概念がいかに危険かつ重要であるかという認識は、二〇世紀の経験から得られる最大の教訓である。

   しかし、バーリンの消極的自由論に対しては、積極的自由を復権しようとする思想的試みが絶えずなされている。多くの人々にとって積極的自由の理念は、生きるために必要なのである。またロールズの理論に対しては、それが所得再分配を擁護する点で社会民主主義的だという批判がある。ロールズは自由主義の擁護者として知られるが、彼の経済的立場はむしろ計画経済の理想に近いのであり、この点で実行可能性が疑われるのも当然だろう。

   問題は、バーリンにせよロールズにせよ、未来社会の構想力に欠けているという点だ。バーリンはあまりにも歴史的熟慮のみを強調しすぎるし、ロールズはあまりにも理論的理性を信頼しすぎている。彼らは歴史ないし理論に依拠するあまり、二〇世紀の市場経済がたどった意味転換(自生的秩序としての市場)を見届けていない。その結果、中長期的なレベルでは、新たな社会秩序を展望できていないのである。

   これに対してM・フリードマンやF・A・ハイエクの自由主義は、七〇年代以降の世界史において重要な理念を提供したと言えるだろう。ダニエル・ヤーギン&ジョゼフ・スタニスロー著『市場対国家(上・下)』(日本経済新聞社、一九九八)は、自由主義の経済思想が政治家たちを通じて世界各国の政策に反映されていった過程について、ドキュメンタリー・タッチで描いた好著である。「これがわたしの信じる理論だ」とサッチャー首相が掲げたのは、ハイエクの『自由の条件』であった。ハイエクやフリードマンはサッチャーと交流があり、「信念による政治」を断行するサッチャー首相を背後で支えた。その思想はまさに、市場経済の変容を汲み取ることに成功した新自由主義であった。

   しかし九〇年代になると、政策や社会構造に体化した新自由主義は、先に述べたような勤労エートスの衰退・社会意識の保守化・経済格差の拡大という傾向によって、保守主義の思想と親和的になっている。われわれはこれをどのように受け止めるべきだろうか。自由主義は現在、市場経済の意味変容だけでなく、社会層の保守化傾向を踏まえた上で、新たな社会構想の理念を求められていると言えるだろう。

   この問題を考える上で、吉川徹著『階層・教育と社会意識の形成――社会意識の磁界』(ミネルヴァ書房、一九九八年)は啓発的である。例えば集団同調性や権威主義的伝統主義といった悪しき習慣は、従来の説に反して、社会層や職種によって規定されるものではない。あるいはまた、保守化といっても家族における世代間の文化的共有は希薄であるという。こうした分析結果を踏まえて、次回は、自由社会の構想について再考してみたいと思う。(つづく)

  [はしもとつとむ/北海道大学助教授]

 

 

自由主義の構想力A「評論」日本経済評論社1999.4.no.112

  橋本努

 

   前回われわれが指摘したのは、「賃金格差の拡大、社会層移動の固定化、勤労エートスの衰退」という三つの事態が現代日本において進行していることであった。こうした事態に対して、自由主義の側からどのように応えていくべきだろうか。

   もちろん自由主義と言ってもいろいろある。一方には、規制緩和がすすむ現状を容認する「現状肯定型」の自由主義がある。しかし他方には、現代社会を憂えて変革を望む「現状改革型」の自由主義がある。それは例えば次のような見解である。即ち、過労死を引き起こす会社文化(社蓄社会)に対しては個人権を要求する。悪しき共同性の結果として生じる「いじめ」に対しては学級廃止と警察権強化を要求する。臓器売買や売春に対しては愚行権や自己決定権を擁護する。価値観の保守化に対しては対抗文化を奨励する。社会層の保守化に対しては階層流動化政策を推進する。賃金格差の拡大に対しては相続税アップと教育補助金政策を要求する。経済政策においてはベンチャー産業を育成してタフな個人主義的エートスを陶冶する。等々である。

   こうした要求を突きつける変革型の自由主義は、現実社会を「生き難さ」に満ちた不自由社会と認定し、それに対する変革要求を突きつけるイデオロギーとして今なおその意義を失っていない。しかし自由を求めると言ってもそれが「いかなる種類の自由なのか」という点において、論者たちの意見は分かれるところである。われわれは、さまざまな「自由」の要求をどのように整合させて社会を構想できるのか。自由主義の構想力は、まさにこの点において問われている。

   そこで最近出版された井上達夫著『他者への自由――公共性の哲学としてのリベラリズム』(創文社)に注目してみたい。本書において井上氏は、ロールズが自由主義の哲学的探求を塞いでしまったことを批判しつつ、政治哲学上の問題をあざやかに剔抉し、さらにそこから自由主義の新たな理念を提出するにまで至る。まずはこのような強度の思考の企てに対して深い敬意を払い、結果として得られた自由主義の知的洗練化とその構想力を、喜んで収穫したいと思う。

   井上達夫氏の基本的主張は、自由を最大限に重んじる自由主義の危険性を指摘しつつ、これに対して正義の基底性を重んじるリベラリズムを提唱することにある。井上流リベラリズムを基礎づけるのは彼独自の人間学であり、「解釈的自律性」をもった人間と「他者への自由」に開かれた人間がそれに当たる。こうした人間理念は、しかしリベラリズムの最終的な基礎づけでは毛頭なく、むしろ独創的かつ論争挑発的な仕方で提示されている点に、氏の議論の魅力がある。自由主義の人間学的基礎といっても、それを徹底して掘り下げてゆくならば、そこには結局、論争的な土俵が広がっている。だから単に自由社会の実効的な基礎づけのみを望むならば、哲学的思考をどこかで止めた方がよいだろう。しかし哲学的基礎づけをあえて試みる理由は、そのような検討を通じて「善き社会の構想」に関する討議を活性化させることにあり、またしたがって、自由について豊かな対話をなすことそのものが「善き社会」であるというメタ価値理念を志向している。それゆえ、たとえ自由主義者といえども井上氏の議論に無批判に納得すべきではなく、むしろ期待されているのは論争挑発的な態度を氏と共に共有することであろう。ここでは内容豊かな本書のごく一部についてではあるが、私の関心から二点に絞って批判的に論評してみたい。

   氏の人間学の第一は、「解釈的自律性」をもった主体をリベラリズムの基礎として練り上げることである。もともと共同体論の側からの提出された「自己解釈的存在」の理念は、しかし特定の共同体に従属するものではなく、その自省作用を通じて既成の共同体を分裂・分化させ、伝統を多元的に増殖させる力をもっている。氏はそのような個人を「逞しきリベラリズム」の担い手として位置づけ、「自己の生の指導的価値」を自らの責任において解釈していく存在を称揚する。

   しかしそのような自己解釈存在が「逞しい」リベラリズムの担い手となりうるのは、共同体から脱してゆくような解釈局面においてのみではないだろうか。強い自省は強い共同性につながることもある。したがって特定の局面を取り出してみれば、自己解釈的存在は、共同体主義を豊穣化する基礎にもなる。問題は、解釈の性質が伝統を豊穣なものにするとしても、そこに分裂・分化による多元的増殖をみるのか、あるいは再創造による伝統の複合的統一をみるのか、という点にあるだろう。「自己の生の指導的価値」にしても、それが一定の共同体の内部において特定のザッヘに仕えることであるという事態も十分に考えられる。そのような人間は、強い自省性と個人性を我がものとしているが、共同体を分化させるほどの逞しさはない。その場合、共同体が分裂・分化によって複殖するのは意図せざる結果であって、自らの逞しさの結果ではない。そこで私の第一の疑問は、自己解釈的存在は果たして「逞しきリベラリズム」の人間的基礎として充分なものか、という点にある。

   もう一つの論点は、「他者への自由」という表題理念に関わる。氏のリベラリズムは、自己の絶対化衝動をはらむ自由を抑制する原理として、「自己を脱中心化する試練を与える師」としての他者を要請する。「師」としての他者は、自我の偏狭な檻を破ってくれると同時に、安心立命をも砕き去り、不安と攪乱に陥れる存在である。そのような他者を自己超越の契機として受け入れるとき、各人は自由を鍛え上げることができるという。

   しかしここで鍛え上げられるべき自由とは何であろうか。それは、再び高次の「生の指導的価値」である自己中心性を得ることか。それとも自己中心性を脱却して自己内分裂を引き受けることか。あるいは自己を相対化する可能性を組み込むことであろうか。

   いずれにせよ氏のいう他者理念は、正義の基底性を正当化するために必要な限りにおいてであれば、人格上の成長を活発に促進するものではない。しかし自己を攪乱する他者がまさに「師」でありうるのは、自己が成長することを師と共に期待できる限りにおいてであり、この点において井上氏のリベラリズムは、「成長」を共通理念とする自由主義へと踏み出していることを積極的に認めるべきではないか。またその場合、諸個人は成長への共同投企を企てるときにはじめて逞しさを身につけるのではないか。次回はこうした問題から、考察をはじめたい。(つづく)

  [はしもとつとむ/北海道大学助教授]

 

 

自由主義の構想力B「評論」日本経済評論社1999.6.no.113

  橋本努

 

   井上達夫氏が近著『他者への自由』において展開するリベラリズムは、「自己を脱中心化する試練を与える師」としての他者をコアに据えている。しかし他者が師でありうるのは、まさに自己が成長することを師と共に期待できるからに他ならない。それゆえ井上氏のリベラリズムは、単なる正義の擁護論ではなく、むしろ「成長」を共通理念とする自由主義へと踏み出している。これが前回の論点であった。

   成長への共同投企を掲げる自由主義を、ここでは「成長論的自由主義」と呼ぶことにしよう。以下において私が試みたいのは、正義の基底性を擁護するリベラリズムから一歩踏み出して、成長を積極的に求める成長論的自由主義の理念を描くことである。

   成長というと、経済成長第一主義といった悪いイメージを抱かれるかもしれない。しかしここでいう成長は、まずもって人格の成長であり、また経済に関して言えば、例えば情報消費率の拡大を成長と見なすことによって、環境に配慮した社会へとすすむことができよう。成長論的自由主義は、なによりも成長することを共通善とするが、しかし必ずしもすべての人が同じ成長基準をもつ必要はない。人々が共有するのは、自己と他者と社会の全体が成長していくという抽象的な理念であって、具体的な成長基準については多様かつ変更可能である。つまり何が具体的によい成長の基準であるかは、それ自体が高次の成長基準に服していると考えるのである。

   井上氏のいう「師としての他者」は、こうした成長論的自由主義へと接続することができる。しかし氏の立場はこの企図を認めないだろう。正義の基底性は、善を育む条件になりえても、善を積極的に活性化する作用をもつものではないからである。だが「師としての他者」は、自らの成長を期待できなければ「信頼のおけない他者」であり、たんなる威圧的な攪乱分子であるかもしれない。他者を師と呼ぶためには、やはり成長へのコミットメントが必要である。いかに辛くとも、またいかに不安と攪乱に満ちていようとも、私が他者とともに成長の理念を共有しているならば、私は他者を「師」と見なすことができる。「他者への自由」は「成長への自由」を必要とする所以である。

   この点を補うために、「他者への自由」が成長を志向しない場合を考えてみよう。大澤真幸氏は最近、「他者性」についてさまざまに論じているが、それは例えば「愛」という作用である。愛は、自己を脱中心化する作用であり、自己の世界の彼岸へと誘う契機である。「愛としての他者」は、必ずしも成長を企図するものではない。愛は、ときに自己を引き裂き、攪乱をもたらすが、そうした作用を師とみなすことは、むしろ危険でさえある。愛のマゾヒスティックな受容は、自らの自由を鍛えることに結びつかないかもしれないからである。

   「他者性に開かれた自己」という理想は、それだけでは必ずしも成長論的自由主義を擁護することはできない。大澤氏の他者論は、自己を脱中心化する他者性の契機が、むしろ自由を制約する条件となることを示している(「自由の牢獄」『アステイオン』一九九八年夏号)。人は何でも選択できるという完全な自己中心性を獲得すると、逆に何をしていいのか分からなくなる。有りすぎる自由は、それ自体が牢獄として感じられてしまう。してみれば、選択の自由に価値があるのは、選択肢の数が多いことにあるのではなく、むしろ選択を制約してくれる他者性に価値が宿るからだと考えられる。このことは「選択」という現象の本質にかかわる問題である。大澤氏によれば、選択の意識は、その行為よりも常に遅れているのであって、選択そのものは、すでに終わったものとしてのみ認識される。例えばある人を愛することは、自らその人を選択したようで、しかし気づいたときにはすでに愛してしまっていたのである。選択は、先験的過去において認識されるのであり、選択を認識したときにはすでに選択してしまっていたというコントロール不可能な他者性の契機をもつ。他者性の契機は、自由を可能にすると同時に制約するのであり、それ自体が自由の価値をもたらすということができる。

   こうした大澤氏の自由論は、自己の自由を制約してくれる他者性への関心を喚起することによって、選択の自由を中心に据える自由主義を批判する武器となる。例えば吉崎祥司著『リベラリズム』(青木書店、一九九八年)は、大澤氏の議論を反自由主義の立場から支持している。しかし他者性による自由の制約は、必ずしも反自由主義と結びつくわけではない。例えば強制的な結婚は反自由主義であるが、恋愛という運命性に基づく結婚は自由主義を必要条件とする。強制結婚と恋愛結婚の違いは、強制的な運命と選択的な運命の違いである。選択的な運命は、選択の自由の下で、自ら他の選択肢を不可視化するという営みを必要とする。自由主義が自由の制約条件に価値をおくとすれば、それは恋愛のように、自らの手で運命化する力をもつような人間を称揚することにおいてである。

   このように、選択の自由を制約する価値は、必ずしも自由主義に反するものではない。とすれば問題は次のようになる。すなわち、自由主義は選択の自由に対して、どのような制度的・倫理的制約条件を正当化できるのだろうか。「成長論的自由主義」の立場からすれば、成長に反する選択肢は制約され、成長に資する選択肢はバックアップされなければならない。例えば市場メカニズムにおける一定の作用は、成長基準に基づく選択淘汰をもたらすことができる。また競技一般も同様に、成長を志向する自由をもたらすことができる。このように選択の自由を制約する際に「成長」の理念を基準にするならば、自由主義は有効な理念たりうる。

   そこで最後に、一つ大きな問題を提起して本小論を閉じることにしたい。かつて大塚久雄は、自由主義の人間的基礎を中産階級の勤労エートスに求めたが、そこにおいて要請される職業倫理は、一つの仕事に打ち込むという自己運命化を理想とした。こうした近代主体の理想は、結果として高度経済成長を担う主体を呼び起こし、その限りにおいて成長への自由をもたらすことができた。しかし現在では、勤労エートスの衰退傾向と転職可能性の増大によって、大塚型の人間像は有効性を失いつつあるように思われる。では現代社会において求められる成長の基準とは何か、またその担い手とは何か。この問題を読者諸氏に問うと同時に、私自身も引き受けたいと思う。(終)

  [はしもとつとむ/北海道大学助教授]